香港勤務時代に職場にいた香港人同僚にあてたメール
彼はその当時に日本語の勉強を始めたのですが、13年たった今ではこんな日本語も理解できるレベルに到達しています。また、食事の前には必ずお祈りをし、教会のボランティア活動を永年続けている熱心なクリスチャンでもあります。反面、バリバリのエンジニアでパソコン青年、科学技術の明るい未来の信奉者でもあり、私にとってはGSM(欧州で開発され今では日本と韓国を除く全世界で使われている携帯電話の標準方式)を教えてくれた師匠でもあります。
(前書き削除)
送っていただいた2冊の本、少しずつ読んでいますが考えながら読むのでなかなかはかどりません。これとは別に、最近「老子」にも興味を持っていて、老子の解説書を近所の図書館から何冊か借りてきて読んでいます。老子の「道」や「絶対無」のコンセプトは理解するのが難しいのですが、人間の想像の範囲をはるかに超えた「何か」のことで、結局、「神」に相当する「ある物」あるいは「ある事」のように思えます。我々の想像できない対象なので、物なのか事なのか、実在するのか、架空のものなのかもわかりません。
図書館で老子の本を探しているときに「神という謎」という題名の宗教哲学の本を偶然見付けました。この本は主にキリスト教の世界でこれまで、「神」はいるのか、いないのかの論争を中立的、科学的に解説したもので、分かり易くて刺激的だったので一気に読みました。「神」を「全知全能の創造主」と定義して、そのような「神」が存在すると主張する論点と、それに対する反論(神が存在すると考えた時の矛盾、例えば、なぜこの世に悲惨な目にあう人たちが沢山いるのか?、神を盲信すると場合によっては結果として罪を犯すことになる、など)を対比させて著者の考えをできるだけ論理的なかたちで展開しています。もちろん結論はありません。
これらの本を読んで私が感じたのは、「神」がもしいるとしても、我々が想像するような「神」ではなく、人間の想像外の「とんでもない物、あるいは者、こと」ではないかと想像します(ここで「想像します」と書きましたが、このことが既に「神は人間の想像外の存在」と矛盾してしまい、禅問答みたいになってしまいますが)。それと、「神」を「全知全能」と考えると、必然的に、そのような「神」は「唯一つの存在」ということになることです。複数の全知全能の「神」が存在すると仮定すると、矛盾がいっぱい出てくるのです。
仮に「神A」と「神B」という2つの「神」が存在するとすると、両方とも「全知全能」ですから、両者の意思が一致しない限り「神」同士の対立があり、さらには「神」同士の喧嘩が始まり、「全知全能」という神の属性と矛盾する事態に発展します。
結局、「神A」と「神B」は同じ意思をもっていて同一の存在である、一つの存在が、ある時には「神A」に見え別の時には「神B」にみえる、「神A」と「神B」は同一であるという結論に行き着くと思われます。
「全知全能」と定義した瞬間に、論理的に、それは「唯一の存在」になると考えられるのです。
キリスト教と同様に、イスラム教でも「唯一の神」が大前提で他の「神」を認めていません。自然科学の法則も同じで、同一の法則が、地球上でも銀河の端でも宇宙の端でもブラックホールの中でも、この世のあらゆる場所で成り立つ、というのが大前提だと思います。仮に銀河の果てで別の法則が成り立っていることが発見された場合には、地球上で成り立っている法則も包含するもっと大きな法則があるはずだと考えて、その究極の法則を探求するのが科学であると考えるのでしょう。その意味で、「唯一の神」を信じる宗教と究極の法則を求める科学は表裏一体のもののような気がします。
(以下削除)
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