大学の同窓会誌に投稿した記事
約3年間のエジプト勤務を終え昨年の夏帰国した。
エジプトと言えばピラミッドやクレオパトラなどで有名であるが、ここではこの国を南北に縦貫する世界一の長河ナイルについて思いをはせてみたい。
左から、メンカウラ王、カフラー王、クフ王のピラミッド。
手前のスフィンクスの左に河岸神殿があり、
これらが一つの複合体、
ピラミッドコンプレックスを構成している。
「エジプトはナイルのたまもの」、これはギリシャの歴史家ヘロドトスの言葉だと伝えられている。エジプトはナイルが造った、いやナイルはエジプトそのものであると言っても過言ではない。
滞在中、エチオピアで旱魃が続きナイル川が危なくなったことがある。ナセル湖の水位が二十数メートルも低下し、流域の穀倉地帯への灌漑に深刻な影響が出始め、さらにアスワンハイダムの発電用取水口近くにまで水面がせまり電力の供給さえおぼつかなくなったのである。
カイロ市内では断水が頻発したり計画停電が実施されたりで、日頃この川に無頓着な市民もあわてだした。ダム建設による地中海への河口水路の閉鎖や地下水の利用開発などの議論が盛んになったが、有効な対策がみつからず、結局は神頼み、政府の要人たちが一日5回のアラーの神へのお祈りの中で雨乞いをする場面がTVで放映されていた。このまま続くとどうなることかと思われたが、お祈りの効果が現れたか上流で大雨が降った。おかげでスーダンは大洪水にみまわれたがエジプトは助かった。
この時ほどナイルの恵みが身にしみたことは無かったであろう。
アスワン付近のナイル。
観光客を乗せたファルーカが浮かぶ。
古代よりエジプトはあらゆる面でナイルに依存してきた。
アスワンにある第1急湍(きゅうたん)以北のナイル川の流れは緩やかで、河口のデルタ地帯に至る流域に幅20Km、長さ1000Kmほどの細長い肥沃な平野を形成している。砂漠気候のため毎日晴天続きで日照時間には最大限に恵まれている。灌漑システムを発達させていた古代エジプト人にとって、降雨が無くても農耕に必要な水を川から得るのは難しいことではない。単位面積当たりの収穫量は世界屈指であったろう。
また、常にナイル川の上流に向かって風が吹くので帆船を使って帆をはれば上流へ、流れに従えば下流へと自由に行き来ができ、物資の輸送にも便利である。川の東西に広がる荒涼とした砂漠は外敵の侵入を阻み国を守った。ナイルは大きな人口を養う経済基盤となり、独立国家としてのまとまりを保つための交通手段となってきたのである。
この様に、最高に恵まれた自然条件があってこそ3000年にも及ぶ長い間古代エジプト王朝が存続しえたと言える。
記録に見る限りナイル川は一度も涸れたことがないとされている。また、毎年正確に、夏の一定時期になると増水し耕地が冠水した。
この増水時期を予測することは農作業の計画を立てる上で必須の条件であった。何千年ものデータが蓄積され、人々はナイルのもつ正確で安定した周期性を良く知っていた。ナイルの水位によりその年の豊作を占い、ナイルのサイクルに合わせて農作業を行った。ナイルとともに生活しながら、彼らは死後の世界を考え、永遠の命を信じたのであろう。日が昇るナイルの東側を生の世界、日の沈む西岸の砂漠の彼方を死の世界と考え、住居はナイルの東に、ピラミッドや墳墓、葬祭殿は西側に造った。
人々の意識の中心には常にナイルがあったと言える。
あの大ピラミッドもナイルの賜物である。
クフ王のピラミッドの建造には10万人の労働力と20年の歳月を要したと推定されている。ナイルが増水し農作業のできなくなる夏の時期に国中から人々を集め、住居を用意し、食料や衣服も支給したと言う。
技術的にも、内部に幾層もの構造壁を作って岩盤にかかる加重の均等化をはかるなど高度な工夫が随所にほどこされていることが判明している。あの高さまで、単純に石灰岩のブロックを積み上げただけだと、底部にかかる荷重のバラツキもあって、自重のために崩れてしまうのである。
国の総力をあげた正に国家的プロジェクトであったと言える。その遂行のためには、それだけの余剰を生み出しうる経済力と、プロジェクトマネージメントのための強大な組織力が不可欠であったはずである。さらに石材の輸送や古代エジプト人の宗教観への影響など、直接、間接にピラミッドの建設をささえたのはナイル川である。ナイルなくしてピラミッドは決して生まれなかった。
カイロ市内を流れるナイル。 手前に日本のODAで建てたオペラハウスが見える。
カイロの中心部を流れるナイルの川幅は意外と狭い。中ノ島付近の淀川の2倍程度であろうか。蒸発と灌漑のため、長い旅程の途中で水量が減ってしまうのである。
また、世界有数の人口過密都市であるカイロは、すさまじいばかりの車の騒音と人々の活気でいっぱいである。とても悠久なるナイルといった雰囲気は無い。
にもかかわらず、岸辺のレストランでエジプトコーヒーを飲みながらナイルの流れを眺めていると、自然の力を感じ、遠い過去へ、はるかな未来へと心が開放された気分になる。この川のもつ歴史的な重みのせいであろう。
日常のゴタゴタを忘れさせてくれる、私にとっても貴重なナイルであった。